春キャベツ


 花曇りで一日風強すぎ、花粉多すぎ。
 夕飯は埼玉の春キャベツ・チンゲン菜とハーブ入りソーセージのバター炒め/三浦の新ワカメと平塚の春キュウリの酢の物/豆腐と油揚げの味噌汁に深谷ネギを嫌っつうほど刻んで入れる/雑穀飯/茶。冷蔵庫内の中途半端な余りもの一掃メニュー。酢とネギで元気回復。うまかった。
 今さらだけど、おとといアーサー・クラークが死んだのを知った。クラークは散りばめられたオタクっぽすぎる装飾と壮大なスペースオペラについていけないものも多かったけど、それでも幼年期の終りや火星の砂、2001年などは、非常に頭のいい人だけが危惧する美しい世界の解と妄想にあふれていて、高校生の頃にとてもうっとりとさせられた。
 ハインラインアシモフヴォネガットもクラークも死んでしまって、半ズボンのブラッドベリはあそこまで行くと死なないんじゃないかって気がしているけど、SF作家というのはわりと長生きが多いなあ。いいことだ。
 しかしすごいのは、彼らやウェルズやジャック・フィニイやキイスやシルヴァーバーグ、アスプリンやフィリップ・ディックらが妄想した社会は、すくなくともその機序に関しては、現在もうすっかり実現されているということだ。二十世紀初頭に生まれ育った米国人SF作家が導き出し、憧れ畏れた未来は、その百年にも満たない後のことだったんだなあと思う。現代のSF人は小説ではなくて、映画や漫画・アニメの方面で多く活躍しているようだけど、彼らが描く不安と期待を妄想で飾った未来世界は、いったいいつごろの時代になるんだろう。その社会は、今よりも美しいだろうか。永遠に滅びない繁栄は存在しないと二世紀の中国人がすでに書き残しているけれど、自分は人と世界の未来の永遠を願わずにはいられない。SF作家は炭鉱のカナリヤだと言ってたのはヴォネガットだっけ? もしいつか人の未来が終わる時が来るならば、世界の誰にも、カナリヤにさえも気づかれないうちに、そっと知らぬ間に終わってほしい。