極楽へ行くのはなるべく後回しにしたいもんだと思った

 生きていればこそ柳川鍋も食えるってもんです
 お盆だ。自分は墓参りは彼岸と盆だけ、神社にいくのは初詣だけの典型的バチアタリなやつだけど、そんなやつでも坊さんは見捨てずに、お盆にはお経をあげにみえる。そいで、毎年お経のあとにはいろいろな説教をしてくれるんだけど、今年のテーマは「極楽とはどんなところか」みたいなので、とてもおもしろかった。うちのお寺の坊さんによれば、悪いことをしなければ我々が死後にいけるであろう仏教の「極楽」というのは、以下のようなところらしい。

  • 昼夜はなく、一年中春のここちよい明るさで、そこいらじゅうにお香の霞がたなびいている
  • お香の霞を吸収するだけで満ちたりて飢えることはなくなるので、食事は不要となる
  • 地面には水晶や瑠璃玉、宝石が敷きつめられている
  • 川底が金でできた大きな美しい川があって、人はそこを蓮の葉っぱの舟にのって浮いて移動する
  • 一日じゅう妙なるお経のひびきがきこえ、ありがたい説教が自然と耳に入ってくる
  • 金銀でできた木がはえ、瑠璃の実がなっている
  • 男女や老若、貧富や健病はなくなり、全員ゆったりとした絹の衣をまとってフワフワできるようになる
  • ありがたいお経を聞いたり経典を読んだり、禅を組んだりするなど楽しいことがたくさん
  • そこらじゅうに菩薩さまや観音さまがいて、やさしく修行にみちびいてくださる
  • 何かを恐れたり苦しんだりすることはなくなり、いつも穏やかで平安な心もちになる
  • 現世で罪があっても、懺悔してお祈りをすれば一切の罪が消滅してだれでも極楽へいける

 うへえ。自分はまだまだ修行がたりないので、そんなお香が霞とたなびくありがたいところへいくよりは、蚊とり線香が夜風にたなびく部屋で探偵小説をよんだりポップスをきいたり、野球の試合中継に一喜一憂したりしながら、初物の焼きサンマに茄子のしぎ焼き、冷奴でビールうめー! とかいってるほうがいいやー。極楽のご先祖さまとやらも、なかなか大変なところにいらっしゃるもんである。自分がいつかくたばって成仏した暁には、盆で家にもどるのがさぞ待ちどおしく、数日で極楽へ帰らなきゃならないのがとても名残り惜しくなることであろうw。
 仏教がひろまった時代は、凶作の年には食べるもの着るものもないし、病気になっても治療法もなく、野生動物や虫がたくさんいて襲われたりするし、冬は寒く、雨の多い地域では治水していない川がしょっちゅう溢れ、水の少ない地域はすぐに旱魃がおこったりとかで、坊さんのいう極楽みたいなところをみんな夢みて、憧れていたんだろうなー。人は嫌なことも期間がきまっていればがんばれるけど、いつまで続くのかわからないとめげる。なので、みんな苦しいのは寿命がくるまでで、死んだらすばらしい極楽へ行けるんだよ、死なない人はいないんだから、がんばって生きてから死ねばだれでも極楽へ行けるんだよ、罪があっても懺悔すれば消えるんだよ、だから死ぬまでの間だけがんばれ、ってことで。
 いまは日本だけで人が一億人以上、先進国ぜんぶで何億人といるから、みんなで協力すればできることはとても多いし、怖いことはそう多くはない。開拓と技術の発達と交易によって何億の人を養えるだけの食べ物ができるようになって、凶作の年も世界中で不作ということはないし、科学にのっとったいい医者やさまざまな専門職の人がたくさんいて、国土はきれいに整備され、街は輝き、夜も明るく、冬は暖かく、読もうと思えばいくらでも本が読めるし、音楽も楽しめる。今いる場所にくらべたら極楽がくだらなく思えるってのは、幸せなことだよね。そういう社会をつくってきたんだから、人は何だかんだいってもすごい。いろいろ問題は絶えないけれど、それでも社会ってのはみんなががんばって問題をひとつずつ解決していこうとする限り、少しずつ良くなっていくんだろうなあと思った。いまは極楽を夢みなくてもいい時代だけど、自分のやったことが想像もつかないすばらしい未来の社会に少しでもつながるのかと思うと、毎日ががんばれる。動物は先のことを考えられないけど、人は死後の極楽にしてもすばらしい未来にしても、学校や仕事のあとの一杯のビールにしても、可能性を信じてがんばれるのが人たる所以なんだろうな。そこが人と他の生き物の違うところなんだろう。
 そんなわけで、せっかく暑い中にありがたい説教を垂れてくれた坊さんには悪いけど、地獄におちて火あぶりにされるのもごめんだが、自分みたいなバチアタリなやつはなるべく長生きして現世を楽しみ、極楽へいくのは後回しにしたいもんだなーと思った次第であります。